その老いた農夫は夜遅く、家の戸をたたく音を聞いた。
彼がドアを開けると、そこには長い黒髪に、
引きずるような黒い服を着た大きな女性が立っていた。
彼女は「闇」であった。
「闇」は何も言わなかったが、
彼はなんのことかすぐに理解した。
そして「ちょっと待っててください」そう言うと眠っている年とった妻に優しくキスした。
やがて彼は「闇」の後ろについて歩き始めた。
月のない漆黒がその足元にうごめいていた。
彼らが通り過ぎるのは、彼が精魂こめた果樹園だった。
果物の木を育てた思い出に老人は浸った。
さらに森に入ると、彼は若かった時代の記憶にふけった。
生まれたばかりの子どもを失った辛い出来事。
妻と出会った頃の思い出・・・。
徐々に記憶をさかのぼり、夜はふけた。
「闇」は一言も話さず、ゆっくりと老人を先導した。
***
やがて彼が幼いころの思い出に浸っていると、遠くの山からかすかな光が現れた。
その時「闇」は消えていた。
朝日が彼を射した時、
老人はそこにいなかった。
そして森全体、世界全体、空全体を照らしているのは自分自身であることを彼は知った。
さらに彼は自分の中に宇宙すべてが内包されていることに気がついた。
「そうであった。すっかり忘れてしまっていたんだな」
宙は彼に満ち、彼は宙を包んでいた。
さわやかな夏の朝のことだった。